白黒の花、色あせた記憶。
ふと、思い出したこと。と言うより思い出せなかったこと。
ぼくが初めてデジカメで撮った写真は今でもPCやUSBメモリのフォルダに入っていて、それはどこかの小さなコンテストに提出したもので、数少ない応募作品の中から気まぐれに選出されて何か賞のようなものをぼくに受け取らせてくれた。
八千円くらいでたたき売られていた型落ちのコンパクトデジカメクオリティのそのまま。画面にはノイズが浮きまくっていて写真としてはあまり質のいいものではないのだが、構図とテーマだけはいっちょまえな感じを出していて面白い。
ほとばしるモノクロの椿、そんなものを撮った昔のぼくのまま今でもぼくは白黒の花の写真を撮り続けている。
問題はなぜ当時おこづかい等とは無縁だったぼくが恐らくなけなしの持ち金をはたいてデジカメを買ったかだ。
どのくらいなけなしかというと4年くらい使いつぶして捨てるまでSDカードを入れたことが無く、内蔵メモリだけで最後まで踏ん張ったくらいにはなけなしである。撮った写真を唯一無二の友人のパソコンに取り込んでもらい、それからそいつのSDカードに入れなおして、これまたなけなしの小銭を握りしめてジャスコに置いてあった現像機からコンテスト用に写真を印刷したことまではっきり覚えている。
これだけ覚えていればその例のコンテストの為にカメラを買ったのだろうと思えなくもないが、実際のところ疑わしい。
使い捨てフィルムカメラしか扱ったことのない人間がそんな行動力を発揮するとは思えない。そもそも写真になんて興味なかったしむしろ苦い思い出すらあったのに。
それ以前にぼくが撮った最後の写真は恐らく小学校の修学旅行で、もちろん使い捨てフィルムカメラだった。
スカイキャプテンのフィルムの枚数ギャグそのものに、どこで貴重な一枚を使うかものすごく考えながら写真を撮っていた僕はこともなく卒業まじかで転校することが決まっていた学校のともだち達との最後の楽しいイベントを終えて家に帰り、母親の彼氏を名乗る男にそのカメラを渡し、そしてそのフィルムから現像されるはずだった写真が僕の手元に届くことは無かった。
おおかたパチンコでお金をスッて現像する余裕がないからゴミ箱へシュートしたとかそんな話なのだろう。当時の僕はそれ以上の悪意は感じないように努めた。
その人は数年前にどこかの癌で亡くなってしまったらしいけど人よりは死に身近な環境だったせいか本当に何も思っていないのか、ぼくは特に感慨もなくたまに思い出す。
弱そうな人で、弱い母親に支配されていて。それ以上に当時のぼくはヘボくて。たぶん今でもぼくはヘボい。
修学旅行でぼくがどんな写真を撮ろうとしたかははっきり覚えているのにその写真は手元に無い。
記憶のカギを無くした悲しみと怒りは鮮明に思い出せるけど記憶の中のそれはあまりにも色あせて質量が無い。
ご多感な時期にそんな事があったものだから写真にいい思い出などあるはずがないのだ。したがって高2のぼくがなけなしの金をはたいてコンパクトデジカメなど買うはずもない。
なぜ、ぼくはカメラを買って、写真を撮り始めたのか。なぜ、当時のぼくは夜の街の誰もいない交差点や路地をフレームに収めたのか。それが問題だ。
今ではぼくは写真を撮るのが好きだ。
当時のぼくを理由もなく急き立てる何かが写真にはあったのだろうか。
そういえば、その賞を取った写真は例の唯一無二の友人の家に今でも飾られているらしい。
この半年に見た映画
斜陽、映画の観すぎ。
半年中に観た映画の一部と一言。
●ファイティングダディ-怒りの除雪車
パッケージでネタ映画だと思って見始めたら違いなくネタ映画だったんだけどいい顔そろった俳優陣とかスパイス効いたジョークとかでなんかどっしりとしたしつらえになってた、ステラン・スカルスガルドとブルーノ・ガンツだぜおい。
ダコタ・ファニングが出てると聞いて観た。んだけど宇宙監獄のガイ・ピアースとは比べ物にならない凄みを纏った牧師の存在感が全てを持って行ってた、聖典の文言って本当に力ある。西部劇以外で開拓史時代を題材にすると暗ーくなるのはお約束。
●RE:BORN
坂口拓、坂口拓、稲川先生、リアルニンジャ。この映画を観てストーリーがどうこう演技がどうこう言う気がしれん、映画とはそんな狭いものではない。あのアクションが全て。
キャプテン・アメリカ!アベンジャーズではなく、アメリカの、自由の、体現者。アメリカの魚拓のような映画だった、もう死んで動かないって意味でも。
●ロストシティZ
楽しくはなかったんだけど、興奮した。英国学術協会でのカットとかもうたまらない、俺は飛び交うヤジと罵倒を見ながらモニターの前で笑い転げていた、それでいいのか紳士の国の自称世界最高頭脳集団、それでよかったんだろうな。時間の流れを建築で表現するあたりとか男臭い友情とか萌えポイントの宝庫だと思うけど、映画狂にしか受け入れられないだろうなぁ‥‥‥
●ドライブ
初レフン、ライアン・ゴズリングかっこいい。レフンは間違いなくオタクだと確信する。
ドライバー映画繋がりってわけじゃないけど見る、アメリカ映画においてコーヒーショップの店員という記号はどういう意味なのか少し考えた、ツー・ガンズとかマシニストとか。
●Dressing Up
祷キララの写真映りがたまらなくきまってる。祷キララ、祷キララである。深淵から覗いているようなあの目はすごい。まだ二十歳くらいだしこれから出てきたらいいなぁとは思うけど肝心の演技がヘボイからどうにもこうにも‥‥‥。左様ならも観ました。
●ファンタスティックビースト
今更見る、楽しい娯楽映画だった。前シリーズからディズニー臭が増した気がする。
ライアン・ゴズリングを観る。なんでこの男は暴力を振るう瞬間だけ以上に際立つんだろうか。椅子に縛りつけられて情けないプレイに興じているカットで画面全体にその醜態が映し出されても空気そのものなのに暴力が絡むカットだけは画面のこっち側に滲んでくるような姿になる。何かと贖罪というテーマを背負わされる役回りが多いけどかくあるべしってかんじにピタッと収まるのは「俳優」って感じがする、橋本治いわく「頭がいいことを体で表現する仕事」って事で。映画の内容はギャグでした。嘘です。やっぱ本当です。
●シルバー・グローブ
迫 真 の 演 技。俺にはわからん。記憶に残るし最後まで見てしまったからなんかあるんだろう、俺にはわからん。実を言うとオチを覚えていなかったりするけどオチなんてそもそも無い映画だった気もする、俺にはわからん。
●草原の実験
世界から映像と音を取り除いたものを文学とするなら、世界から映像と音だけを切り取ったものは何なんだろうか。文学にはセリフがあるけどこの映画にはない。世界を文学にして切り取りそこからさらにセリフを切り取って映像として抽出したって感じがする。映画、もしくは実験。5回目の視聴でやっと完走する、きれいすぎる映像と言葉の混じらないきれいな音が心地よい眠りを連れてくる作品だった。
●金融腐蝕列島・呪縛
俳優の顔、男達の顔、会議室に飛び交う専門用語、なんかヨクワカラナイけどプロの世界ってかっこいい。スゲーって感じ。椎名桔平がかっこよかった、アバドーンのきっぺいって元ネタこの人なのかな。
ミシェル・ウィリアムズがバツイチ再婚してた、ミシェル・ウィリアムズが泣いてた、ミシェル・ウィリアムズが犯罪的に萌える、スピーシーズの時からファンです。このMWメガネを通して作品を見ればもう何も内容など覚えていられない。カンフー・ハッスルのデスボ大家さんが最後の戦闘シーンでめちゃくちゃ可愛く(奇麗に)見えるのと同じ手法を使ってた。まず過去編で鬼ババ演技するやつ。
●ライズ
魂をふるわす本物のダンス。
●ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア
行き当たりばったりで無鉄砲に旅をする、終わりはいつ、どこになるかわからないけど自分たちがどうなるのかはわかってる、そんな話。
●鎧サムライゾンビ
北村龍平さぁ‥‥‥これ鎧でもサムライでもゾンビでもなく怪獣映画だろ。やっくんイケメン。
ああ、これ胆振だ。って空気の塊。真っ黒な海、灰色にくくすんだ窓ガラス、白い雪山、すげぇダウナーでどうしようもなく暗い「今」を湛えている。ただたださびれた工業街のどこにでもある空気。死にかけの廃墟はきれいじゃないものだ。
●キッズ・リベンジ
姉弟愛萌えなのである、境ホラのウッキーと同じような思想でもあるのだが、あのガラスのように力強い後ろ姿が好きなのだ。こういう萌えを映してくれる映画は少ない。
●コールド・キラー
ドイツ映画って日本ではイケメン俳優が入ってくる役回りにイケおじが入ってくるんですか?
●ファイナル・アワーズ
オーストラリアの風景、日差しがきつい国だったと思い出した。
●モーターラッド
崖の上にずらっとバイクに乗った黒い影が並ぶ、ブラジルの自然を背景に水がとても美しく映えていた。
●エグジット・スピード
ガキンチョのころに見たかったなぁ、少しばかりグロ描写はあるけどお手製武器工作とか過程を丁寧に書き出されていたり、脚本がピタッとあるべきところにはまっている感じがすごくよかった。今観ればダークエルフとかのネタでボンクラが作った映画としか思えないが実際ボンクラ向けだしガキンチョ向けな楽しい映画だった。
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とりあえず誕生日なので自分の歳と同じ数だけ半年内に観た映画を連ねてみる。
ほかにも色々見た、上に挙げた映画よりも印象に残っていたり、語りたい映画もあるんだけどまだまだ語れるほど詰めれてないので書かない。ラ・ジュテとかストーカーとか。
そんなに映画に依存してるわけでもないはずなんだけど普通の人はこんなに映画見ないよなと一年を振り返る。
映画に関わらず人生で一番濃い一年だった気がする、今まで観たくても観れなかった反動が来てるのだろうか、と思う。
お手製オタク料理
────材料────
- パンの耳
- 卵
- リンゴ
- バナナ
- 金柑
- 胡桃
- 豆腐
- 紅茶
- 牛乳
- 砂糖
- 塩
- 無塩バター
- カルダモン(粉末・シード)
- 五香粉
- タイム
前の日曜の話、久しぶりに手の込んだ料理を作る、ワインを煮詰めたシロップをぶっかけるのを食い終わるまで忘れていた。
正確なレシピなんてシロモノは書き留めてもいないし、そもそも家にあるもので何となく作った自分用の料理なので二度と同じものを作る事はない。味としては底辺貴族(オスマントルコ)の食卓に年に一度あがるデザートみたいなかんじなんじゃないだろうか。名前は当然のごとく無い。
ありものとは言え気取ったものを作ると激しい後悔に襲われるので口直しに今日はざぼんを食う。酸っぱい。
最近の人間は歌、ひいては音楽をなんだと思っているのだろうか。最近よく頭に浮かぶ単純な疑問である。
僕は歌というものは祈りに近い形態をとっている時が一番美しいと思っているし、そう感じられる音楽が好きだ。
ミックスがどうのこうのとかここのコード進行がどうのこうのとかは音楽を聴く上ではそう重要ではないよもやま話の範疇であって、結局のとこオタク的な話題として終始していることは明らかだと思う。断じてどうする?評してどうする?音楽だぞ?とかはよく口をつきそうになったり。
まあ最近の音楽に気分的でおひとり様享楽的な「オタク部屋向け」なものが多いのも確かは確かで、ようするに、これを人様の前で歌うのは恥ずかしいなぁって思うような音楽なんだけど、それを恥ずかしいものだと感じとる感性が変質してきているというのが最近の風潮なんだろう。
恥部、というのは隠さるる場所で、同時に隠れるための場所でもある。
バットマンの手裏剣制作シーンとかパルプ臭い探偵事務所とかオタク的消費は上に書いた謎料理のごとく秘密裏に行われるべきであってけっして大手をふって慣行されるべきではない、もっこりを超えてもろだしになったら犯罪だしスカートは中身が見えないからいいんだろうがって叫んでみる。
俺のかくれる場所はどこだ。
だめだ兄貴、もうじきここにも手が回ってくる、新しいアジトに移らねぇと!、と心の中のヤスが叫び、どうせまた俺は着の身着のまま小さい鞄に今まで蓄えたものを放り込んで旅に出る。
じゃあな。
まること銀河竜、買った。
ノベルゲー苦手なんだけどなぁ。
心地よくない眠気が来る。映画見たい。本読みたい。なんか書きたい。
僕はゲームというのはある程度のシステム的な要素、リソースとそれを制御するアーキテクチャで成り立っているものだと思いこんでいるから、目的もなく、絵と字がただただ流れていく退屈な時間に耐えるのがむつかしい。
もちろん可愛い女の子を攻略するだとか受けのネクタイを掴ませるだとか、そういうシーンに突入するだとかを掲げて選択肢を周到に選んでいこうと言うのなら僕の思っていたゲームとして成り立つのかもしれないが、それは受け手側のこころがまえが必要で、少なくとも僕はそういう受け手ではない。僕は圧倒的な光景をただただ見せつけられるのが三度の飯の次に好きというヘンタイなのでこれはどうしようもない。
それでも数をこなせば慣れるものなんだろうけど、僕はそういうものに対するげんしけんの笹原君のような憧れは持ち合わせていなかった、ということなんだろう。
たとえおいしくても慣れない料理を食べ続けるのは辛いことだし、慣れるまでにはたくさんの時間を使う。僕は今までそういう時間を取ってこなかったという事でもある。反省はしていません。
最近、あれはゲームではない「お話」だ、と思うようになってだいぶ楽になった。あれは料理じゃなくておやつだからと頭の中で言い換えるように。もしくはスイカは果物ではなく野菜です、と言い張るように。もちろんスイカは野菜だけど。
そういうわけで、もしそういうゲームを勧められた時は「選択肢が少ないならやる」と言うようにしている。間違えそうになるから。
それでもいままで完走できたノベルゲーは片手で数えるほどしかない。
半端マニアソフトのふゆがみとか、そらちゃとか。暴力的なシナリオに叩き潰された。
そんなこんなでまること銀河竜はアニメの円盤を買うつもりで買いました。アニメ滅多に見ないし円盤買ったこと無いけど。
選択肢が3時間に一回、しかも下らない、思った通りで安心した。
ということで、なんか最近ゲームを名乗ってまったくゲームしてない作品多いなってのは遅まきながら感じてきている。ゲームを名乗るならゲームさせてほしい、表の方でそういう裏切りはしないでほしいとか勝手に思いながら。
でも、デトロイトのあれは間違いなくゲームだな、とかは思ったりする。
そして昨今あふれる同人ゲーにこれだけは言わせて欲しい、唐突にそういうシーンに入るのをやめてくれ、と。地雷踏むのは慣れてるけど。